人に対して普通という言葉を使うことへの違和感

よくあるスーパーにある七夕の短冊のひとつにたまたま目が留まった。

「ふつうのおとなになれますように」

おそらく小さな子供であろうたどたどしい平仮名で書かれたお願いは、まるで子供らしくない表現だったことに少し引っかかった。

普通であるということ。

平凡とはまた違うニュアンスをまとっている表現。

普通ってなに、というありきたりなツッコミで終われせるにはもったいない題材だと思った。

当たり前に世界中の人の数だけ個性があり人格がある。

有り体に言うとみんながみんな違う人間なのであって、人間そのものに対して普通という概念は本来なら存在しない。

ある指標を集計した時の、正規分布における中間地点を普通という名称で呼ぶのは納得ができる。

身長や偏差値など真ん中あたりで分量の多い部分を普通と呼ぶように。

それが個性や人格となると、いろんな指標が複雑に絡み合って一人の人間ができているので、一概に普通の人であるというのはむずかしい。

それでも人は分類することが好きなので、いろいろと分けたがる。

量が多いとマジョリティと呼び、量が少ないとマイノリティと呼ぶだけの話だ。

そして生存本能のはたらきからかマジョリティであることの方がきっと安心するのだろう。

例えば、身体的な障害のある人はマイノリティに分類される。

そうしてラベルを貼られる。

身体障害の場合、目に見える指標だけで判断しているから、それを普通でないとしてしまうのは違うと思う。

心や内面に障害のある人は、見た目は健常者なのでマジョリティに分類されることで、普通でないといけない圧がかかり生きづらかったりするものだ。

どの指標がマイノリティとかではなく、みんな等しくマイノリティなのだ。

結果として人が勝手に数値化して分類しているだけに過ぎない。

子供が短冊に書いた言葉は、きっと親御さんの教育が影響しているのだろう。

普通になりたいことを否定するつもりはないけど、普通以外の人を排除するような大人にはなってほしくないと思う。

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