信頼と安心

小学生の頃は門限というシステムがあった。

今の子供にも少なからずあるのだろうか。

学校終わりの塾や習い事も増えていて、遊びが終わる時間としての門限は減っている

のかもしれない。

反対に過保護な親なら子供が大学生になっても門限を設けている人だっているだろう。

当たり前に門限が生まれる動機は親の心配からきている。

暗くなったら危ないし、変質者はどの時代にいてもおかしくはない。

しごく当然の行為ではあるけれど、主体となっているのは親側の安心に基づいている。

今の時代は門限こそないものの、見守りケータイ的でGPS的なものが場所を特定できることで心配を安心に変えている。

そうして管理することは親の役目であり、目の離せない時期の注意はもちろん大切なことだけど、教育においてはその引き際のさじ加減がむずかしいと思う。

安心は裏を返すと制御であり監視でもある。

ある意味では自分の責任を最小限にしたいというエゴがはたらいている。

子供の立場だったらどうだろう。

過度な親の心配は自分が信頼されていないと受け取ることもできる。

無責任な放任と信頼の含まれる放任も微妙なバランスではあるけど、だれかに信頼されているということは強い承認と存在意義を得られる。

何が起きるかわからないけれど、何かが起きた時にはまず自分で対処しようと考えることが人を強くさせていくのではないだろうか。

親子関係だけにはとどまらず、他者を信頼することはリスクと責任が伴うけれど長い目で見れば合理的だと思える。

人と人の信頼関係が少なくなっているからこそハラスメントの類いも横行するのではないだろうか。

信頼は言語化できるような規則には収まりきらないほどのエネルギーが宿っている。

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