当たり前に使っているような言葉も、深く考えてみるといろんな側面が見えてくる。
哲学とはまさにそのような営み。
目的という言葉は、あった方がいい、あるべきものとして認識しているけれど、どこか危うさも孕んでいる。
誰かのためにや、未来のためにといった名目で手段が正当化されてしまうと、大きな争いさえも容認されてしまう。
そして口の達者な人に煽動されかねない。
目的は自己管理ができるくらいに、自分の頭で考えることが重要になってくる。
消費は終わりのない目的で、もっと贅沢をした方がいいと言う。
ここで言う贅沢は、ゴージャスやラグジュアリーではなく、機能や性能を超えた意味のないものというニュアンス。
栄養を摂取するだけの食生活はまるで楽しくない。
それに外で食べるごはんの目的が写真を撮ってSNSに投稿することだろうか。
食べたことよりも、行ったことや承認されることが目的になってしまったら、どこまでも際限がないし、中身もない。
気の合う人と高価でなくとも美味しいごはんを囲んで話せることは最高の贅沢だと思う。
誰かに認められなくてもいい、写真も撮らなくていい、いい記憶こそが心を豊かにしてくれるのだから。
そんな大切なことを忘れてしまいそうになる行き過ぎた資本主義社会だけれど。
イギリスの食事がなぜ美味しくないと言われているかの考察がおもしろかった。
端的にいうと産業革命以降、お祭りや行事ごとがなくなったことに起因すると言う。
便利さは面倒臭さを奪っていく。
行事ごとには欠かせない食文化への意識が薄まったから、美味しさへの追求がなくなったのかもしれない。
今はそうでもないらしいけれど。
あらためて食文化と人間らしさの関係を実感すると、今の社会は生きた食からは遠ざかっているので危機感をおぼえてしまう。
何の目的でそれをするのかを今一度考えるいい機会になった。