消費社会とマーケティング

片付けや断捨離やミニマリストが出てくるのは現代がモノで溢れてる証拠。

貧しい時代はモノに価値があったけど、少なくとも日本が豊かになった今、必要最低限の閾値を大幅に超えているような気がする。

ショッピングモールに行っても、スーパーに行っても、コンビニに行っても、どれも不要なモノに見えてしかたない。

キラキラしたタレントとキャッチーな言葉で商品を目立たせて、消費者の購買意欲を刺激するやり方はもはや情報弱者を騙しているようにさえ見えてしまう。

それくらいマーケティングと呼ばれる、いかにしてモノや情報を買ってもらうかの技術や行動心理が確立されていて、頭のいい人たちに(ある意味で故意に)操作されている気がしてならない。

残りわずか、だとか、今だけ、だとか、みんなそうしてる、という文言に人はめっぽう弱い。

損をしたくない、仲間はずれにされたくない、無意識下で危機管理や集団心理が自動的にはたらいている。

豊かさや幸福や家族の形や理想の人生は、極論メディア(国やテレビなど影響力のあるものすべて)が経済を活発にするために、消費を促すために、思い込みを押し付けてるとも言える。

これは穿った見方かもしれないけど、人はみんな等しく与えられた認知で世界を見ている。

だからと言ってモノを売ったり商品を買ってもらわないと経済は成り立たないので必要ではあるけど、どこか行き過ぎていることが問題だと思えてならない。

ましてや今は莫大な情報量が毎日毎日目の前を通り過ぎていく。

消費者に商品を買ってもらうために注意を引くには、どうしても刺激が強く言葉巧みな情報にどうしても偏っていく構造になっているのが恐ろしいと思う。

同時に自分も消費者である一方、商売をしてる側でもある。

お客様に商品を買ってもらわないとお店は成り立たない。

そのためにとるアクションは、どうしたってマーケティング技術も必要になってくる。

いかに買ってもらうか。

いかに心を動かしてもらうか。

経済と感動の関係は紙一重だと思う。

お客様がモノを買って心の底から満足しているなら、両者にとって幸せなことだからとやかくいう筋合いもない。

ただそこに意図や故意が含まれてしまうのは、すんなりと納得はいかないけれど、そのさじ加減は曖昧でぼんやりしている。

飲食に限ってはモノではなく体験であることが大きい。

これだけ世の中はもうモノで溢れてるのだから、もっと体験価値の大切さに意識が向いてもいいのではと期待している今日この頃。

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