ハンデから生まれる強さのようなもの

足の不自由なお客様がいる。

その方は昔から変わらず自分の料理を応援してくれている。

今まで言葉を交わしたことはあまりなかったけれど、店内飲食でご来店いただき話をする機会があった。

足を引きずるように歩く姿がいつも痛々しくて、どんな思いでこの世界を見ているんだろうと前々から気になっていたので、せっかくの機会だからと恐る恐る尋ねてみた。

未熟児で生まれてから下半身の筋肉が弱いということだった。

まっすぐに歩けない。

身体のバランスがとりずらい。

後天的なものではなく生まれた時からそんなハンデを背負っているということに驚いた。

健常者には到底理解できない範疇だ。

若い頃は周りとのギャップに苦しんだと言う。

希望や憧れの壁が目の前に高く聳え立っているのはどんな気持ちだろう。

絶対に行けない領域があることを直視するのはどんな気持ちだろう。

そのお客様は自身が楽観的な性格であったことが救いだったと言う。

そんな自分を受け入れ、何か手に職をつけないと生きていけないと案じ、下半身を使わなくていい仕事を、とプログラマーやトリマーという職種に従事してきたと話してくれた。

諦めていた結婚も、良き理解者と出会い、子供を授かるまでに至っている。

自分に何ができて何ができないか。

諦める潔さ。

そこには生への“強さ”が宿っているように思えた。

できることをやる、できることを伸ばす。

本来ならそれがシンプルな本質であるはずなのに、人は他人を羨ましがり、できないことを知って勝手に落ち込んでいる。

誰しも見た目は健常者でも表には現れないマイノリティさを抱えているもの。

それが見えないからこそ受け入れにくいのかもしれない。

周りの視線を伺いながら前ならえをしている一人一人がそれぞれに特別であるはず。

できないことはしない、自分で動かせる可能性にだけ注力する。

こうして日々の些細な会話からも学びが得られる。

テレビで観るわけでもなく、文章で読むのでもなく、直接聞く生の声に大きな気づきがあり心が動くのはなぜだろう。

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