飲食の仕事は大変だと評判がいい。
廃業率は高く、利益率も低く、勤務時間も長いのに、どうしてこんなにもたくさんお店があって、たくさんの人がお店を始めるのか。
合理的に考えれば飲食をやらない方がいいのはすでに答えが出ているような気がする。
周りを見ていても頭のいい人たちは始めから飲食には手を出さない。
でも食に携わり、食を志す人たちは、お金では買えないものがあることを知っているからだと思う。
それは人間の本質に根ざした“幸福”や“充足感”や“自然や人との関わり”と言ったところだろう。
だから飲食の仕事が大変だとわかっていてもたくさんの人が魅了される。
今の社会はお金(収入)の多寡で人の価値や幸福度が測られがちになっている。
いかにゴージャスな体験をして、いかにゴージャスなものを身に纏って、周りの視線を集めるか、を競争し合っているように見える。
世界で一人だけ生き残ったとしたらゴージャスな振る舞いをするだろうか。
結局その競争は他者評価や優越感の上に成り立っている。
一昔前の貧しかった時代はそれでよかったのかもしれないけれど、これだけある程度等しく豊かになった時代に、ゴージャスさを見せつけられても「それで?」となってしまうのはきっと気のせいでもないはず。
むしろ“ダサい”と形容されてもおかしくないほどに、時代の価値観が変わろうとしているのを肌で感じている。
カッコよさは時代によって変わっていくもの。
現実に、世界的にも、企業の活動は環境に配慮しているとか、多様性を包括しているとか、ESG経営と呼ばれるような、どう社会にいい影響を与えているかが基準になってきている。
道徳的にも倫理的にも善き行いや振る舞いをすること。
隠し事がなくてクリアで嘘がないこと。
何をしている人なのか。
社会にどういい影響を与えているのか。
そんな善良さが問われるような社会へ向かっているように思う。
もしかしたらテクノロジーによって人の善良さが数値化される未来がくるのかもしれない。
翻って飲食の仕事というのは、人間の三大欲求にも根ざしていて、お客様とのやりとりの中で喜びや感謝を交換していると言っても過言ではない。
善き行いの中で幸福や充足を感じている。
全部の飲食関係がそうだとは限らないけれど、個人でやっているようなお店はこれからやってくる価値観に相応しいのではないか。
地域への貢献が社会へとつながり、顔の見えるやりとりは隠し事がなく、お客様との関係性は心理的安全性のネットワークを築いていく。
そんな飲食の仕事がもっと評価されるような価値観になっていくと信じている。
直接的に社会の役に立つことがカッコいいとされる時代になると。