わかりやすさの弊害

昨日の続きが言いたくて。
誰かがクリエイティブ活動によって何かのメッセージを発信したとしても、受け取る側に準備ができていないと何も吸収できない。
モナリザを見たって何も感じない人だっているだろう。
もしくは何かを感じたふりをしてる人もきっと多い。
受け取り方は、文脈を知ればまた見方は変わるだろうし、自分の経験値によっても変わってくる。
言葉や知識の量によるところも大きい。
同じ雨でも、その名称は400種類以上もあって、ひとつの雨しか知らないと、そこから情緒は感じとりづらい。
大人になればなるほど出来事に深みが増すのは、それで説明できる。
だからどれだけ発信者がいいことを伝えても、受信者に素養がないと意味がないのだ。

ではどうすれば受信者の感度が高まるかというと、やっぱり教育なのかなあと思う。
国の教育制度そのものが問題視されているし、いまだに保守的で古い体質のまま。
教育は成果が出るまでお金も時間もかかる。
時間の尺を長くとらないと成長が見えないから敬遠されるのかも。
そこに追い討ちをかけるように時代はわかりやすさに向かっている。
平易な表現、ひらがなの多用、短い動画、結論ファースト。
テック企業は受信者の時間の奪い合う。
本来プロセスに意味があったりするのに。
文脈があってこそたどり着ける真実があるのに。
ビジネス書ではなく小説のように。
インターネットは、わかりやすさは確実に人間の考える力を奪っている。
突き詰めれば、わかりやすい方が儲かるから市場原理はどうしてもそちら側に力学が働く。
だからぼくはわかりやすく書いていない。
少しばかりの抵抗とメッセージを発信している。
あとは受け取り方次第。

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