解放されている解釈

昔から不思議と人工的に作られたものが好きではない。

目的や機能に行為を誘導されているようで。

豪華なホテルや遊園地やショッピングモールより、

波に削られた岩壁や、無作為に伸びている木々や、

太陽の光で刹那的に変化する景色の方が、心が動く。

自然発生する美しさこそが、究極の美なのではないか。

なんてめんどくさいことを常々思っている。

なので、人工的なものであったとしても、

人によって変わる解釈に余地のある

環境デザインにはなぜかとても惹かれてしまう。

例えば、積み木やレゴの類い。

無作為に用意されたブロックがあるだけで、

何を作るかは自分の発想次第。

目的を与えられたわけではないのに、

そこに存在していないと何も始まらない。

ジャングルジムや鉄棒も同じで、

作りもデザインもシンプルで遊び方は自由。

子供の遊びも考え尽くされていておもしろい。

その感性が自分にとって重要だったから、

料理という仕事を選んだのかもしれないな。

いろんな食材の組み合わせを考えて、

自分だけのオリジナルを作る。

そこに正解はないし、自分だけの正解を探求する

永遠に終わりのない作業になる。

同じことは文章にも言えると思っていて、

言葉も食材のように、たくさん存在しているので、

どう組み合わせて、どう表現するか、

構造がとても似ているなと書いていて気づいた。

食材のように鮮度がないから、幾分扱いやすいけど

どこかで制限をかけないと前に進めなかったりする。

料理も文章もクリエイティブな領域だと思うので、

環境や行為に即したデザインに惹かれる素養が、

就いてしかるべき場所に存在していることがわかった。

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