かけた時間が手から生まれる

食べるという行為は広い視点で見るならば、生命活動に欠かせないもの。
同じ人間の中でも食は世界の共通認識。
そこには言語を超えた何かがあるとあらためて思った。
美味しいという感情は違う国の人も一緒なのか。
子供にも同じように伝わるのか。
例えば、自分の作った料理は海外の人にどう評価されるのだろう。
味付けは育った環境や文化によって好みがあるかもしれないけど、切り方や火の入れ方などの培った経験だけがなせる技術はある程度定量化できそうな気もする。
そこに生まれるセンスもまたひとつの武器なのでは。

最近思うのは、料理そのものへの探究心も大事だけど、料理をすることに携わった時間の総量もとても価値のあることだということ。
手に職と呼ばれる仕事はみんなそうかもしれない。
手から何かが生まれるということは身体性を伴った人間の行為で、時間の経過と共に身体の動作に無意識に刻まれていくもの。
歯磨きやお風呂で体を洗うことは考えなくても自然にできるように。
その時間こそが同じ料理ができるでも主婦とプロの違いの差と言えるのでは。
食材に触れてきた時間、包丁を握っていた時間、改善に試行錯誤した時間など。
葱を切った量や、肉を焼いた量や、いただいた反応の量もまた違う。

自分の生きた時間は誰にも奪われないし、誰にも真似できない。
今一度振り返って見ると、たいしたものを作っていなくても、料理に携わってきた時間は代わりのきかない価値なんだとあらためて思えた。
その価値をどう活かすのが最善なのかはまだ明確に見つかっていないけど。
海外でお店をする、という挑戦もおもしろそうだ。

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