知の共有地

先日、能勢のnomadikさんで開催された、食や農を研究されている藤原辰史さんの新刊「植物考」のトークイベント?的な講義にご縁があって参加してきました。
主題は、植物から考える人類のふるまいについてなどで、本の内容もそこそこに集まった方たちもそれこそ自然や農や食に関心のある人ばかりで、後半は主に著者とオーディエンスとの対話がメインとなりました。

人間も動物も植物も当たり前にもともと同じところから生まれた命です。
人間の中に眠っている植物的なふるまいを紐解き、気づきを与え、行きすぎた人間至上主義や社会の在り方について考えさせられました。
植物は生き残るために自由に動けない分、根を張り、種をまき、ランダムに可能性を分散させます。
人間社会に当てはめると、資産を分散させたり、複数の仕事を同時にこなしたり、たくさん子供を作ることでしょうか。
なかなか簡単にできることではなさそうです。
ただ今回の集まりの趣旨がまさに”知の共有地”をつくることで、多様な人たちがひとつの場所に集って何かに気づいて変わるきっかけになるかもしれないことが意味のあることだと思いました。

それでもその共有地に集まる人はそういうものに問題意識を持っていたり、関心があったりと考えれる人たちばかりで、見方を変えてみれば偏りが生まれていると言えなくもありません。
その内側からもっと外側の人にも知ってもらうには何ができるのだろう、種をまくにはどうしたらいいのだろう、とさらなる課題が生まれ、微力ながらここにこうして感想を書いています。

個人的に自然や生態系のバランスが大事なのは重々承知していますが、進化なのか退化なのか時代の大きな変化には抗えないと思っています。
講義の中で「自然とは何か?」みたいな問いかけもありましたが、自然の定義を人間の意志が介在しない無作為なものだとするならば、前回の記事とつながりますが資本主義システムやデジタル革命もまた自然と言えるのではないでしょうか。
今はもはや日本ならどこで暮らそうと車やスマホなど文明の利器は欠かせないわけで、その恩恵を少なからず等しく受けているはずです。
どの時間軸を起点に考えるかで自然の定義も変わるような気がしています。
冷ややかな視点を持ちつつ、適度に世界と距離をとり、自然に身を委ねていく。
ぼくは今のところそんなスタンスで生きています。

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