事実とは、事象とは、本来ならただそこにあるだけなのに、人は自分というフィルターを通してそこに解釈を与えてしまう。
物の見方、世界の捉え方、用意された材料だけを見て自分の納得がいくように判断してしまう。
そして、いいか悪いか、本当か嘘か、いろんな分け方で分類する。
一度思い込みができてしまうと、次に何を見ても自分の考え方に沿った形でしか見えなくなる。
人間が人間である以上、認知バイアスは避けられない。
おそらくまっさらな目で世界を見ることは誰にもできない。
生まれ育った環境や周りの影響で、何かを見るときの視点はある程度決まっててしまう。
そのフレームワークが社会や世間という実体のないものだろう。
これらはある意味で自然より自然なのかもしれない。
誰が作ったものでもない常に時代とともに変わっていくもの。
誰かや何かのせいにせず相手の背景を想像すること、思いを馳せること。
という簡単なメッセージでもなく、もっともっと深い問いを投げかけられたよう。
どれだけ想像しても相手の気持ちなんて当事者にしかわからない。
それにのんびり論理的に考えるよりも人は感情の発動を優先するものだ。
辛いとき、苦しいとき、差し迫った環境下で人は冷静になることがむずかしい。
誰にとっても怪物となりえる可能性が等しく与えられていることを理解できていることがまだせめてもの救いであるような気がした。
自分が思う以上に、誰にどう思われているかはどこまでもわからない。
社会の目、世間の目、そのぼんやりしたものの中で、人は少なからず周りを気にしながら生きている。
何をしている人なのか、どんな装いなのか、イメージというのは強力に作用する。
お店のイメージで言えば、丁寧できちんとしていて、ちょっと自然派な感じでしょうか。
果たして本当の人間性はどうなんでしょう。
どれだけ言葉を尽くして説明したとしても100%では伝わらないのがもどかしいところ。
そもそも言葉の定義や解釈が違うから。
それくらい人と人が完全にわかり合うことはむずかしいこと。
人の数だけいろんな視点や考え方があって、それが複雑にからみあいつつも絶えず変化しながら成り立っている社会や世間というのは、みんなで作っている崇高な芸術作品のような気がした。