日本はときにサービスが過剰だと揶揄される。
おもてなし文化も、先回りして察することも、言葉を介さずに気持ちを汲み取ることも、相手に喜んでもらいたいという動機から生まれていることを考えると素晴らしい行いだ。
でもしかし、その行いで見えない誰かが不遇な環境下で犠牲になっているとしたら、それは果たしていいサービスだと言えるのだろうか。
便利さや快適さは明らかに加速している。
家にいるだけで物に食事になんでも届けてくれる。
たとえ不便な場所に住んでいても届けてくれる。
生活家電は時間の短縮を競い合っている。
効率化、生産性、要約、わかりさすさ、などが求められるのは、人間の本能に根ざしているのできっと止められない。
もっと世の中をよくしよう、新しいフロンティアを開拓しよう、子供のために未来のために。
その裏側には暗にお金の問題も孕んでいる。
掃除ロボットや洗濯乾燥機などは機械が代わりにやってくれているので問題ないけれど、支払い方法の複雑さや即日配達などは便利さの負担が人になっている点でやっぱり違和感を覚える。
(脳を休めるために無心で掃除をする時間もほんとは大事だと思うけど)
下の記事ではポイントが例に上がっているけど、ポイントひとつ確認するだけで相手の仕事を増やしている。
https://note.com/mnbtauchi/n/ndfcfb7c8c2de
コンビニの語源は便利さであるけど、もはやいろんなサービスが追加されすぎていて、スタッフはきっと覚えることが多すぎて大変に違いない。
便利さの裏側で皺寄せを受けている人たちがいることを想像すると、おかしな世の中だと思わずにはいられない。
そのような末端の現場では総じて慢性的な人手不足であることにも頷ける。
飲食業界もその一部だろう。
人はどうしても環境に慣れてしまう。
今は便利さや早さが当たり前になってきている。
ネット通信が遅いとしんどいし、今さら手紙を手書きで書く人も少ない。
ぬくぬくとした環境で育てられてサービスの基準値がどんどん上がっていく。
世の中が便利になることはいいことだけど、誰かが犠牲になっているのはやっぱりおかしい。
それは頭がいいとか頭が悪いとかの話ではない。
誰に対しても相手への敬意があるならばそんなことにはならないはずなのに。
人よりも想像力をはたらかせないといけない。