手間ひまの意味合い

冷凍食品の充実、コンビニごはんや調理機器の進化、料理をつくる工程の買い物から仕上げるまでの時間がどんどん短縮されている。

そもそも料理をつくることさえしなくなっている現状でもある。

それは本当に便利なのか、豊かなことなのか、と言われると疑問が残ってしまう。

料理において手間をかけることと時間がかかっていることは同義だけど、一昔前ほど手間をかけているイコール美味しいと結びついていないような気もする。

長時間かけて煮込んだからと言って美味しいとも限らない。

ワインや生ハムなどはまた別の話だ。

この時代に手間ひまかけた手仕事であるというのは生産効率がとても悪い。

どんどん機械化、コンピュータ化していて、手間ひまの時間性に価値がなくなっているのは残念だと思う反面で、どこからどこまでが手間なのかという基準によっても捉え方は変わるのだと思う。

現在生きてる社会や時代で変わると言ってもいい。

100年前の人からしたら、今の手間は手間と呼べるものではないかもしれない。

ニワトリを飼って卵を産んでもらって、それを食すのが手間だとしたら、現在の卵をスーパーで買う行為はきっと邪道なことに違いない。

削られた鰹節を買っていることに憤慨されるかもしれない。

時間軸を俯瞰してみると確実に時代は加速しているので、100年後の人たちにとったら現在料理を人間がつくっていることを馬鹿にされるかもしれない。

どれだけ料理に時間をかけているのだと。

同じ言葉でも概念や意味合いが時代の価値観によって変わっていくのだと思えた。

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