お客様のお家に行って料理をする。
そんなことも声がかかればたまにはしているのだけど、人の家に上がることなんて普段あまりないので職業柄なのかついつい観察を巡らせてしまう。
家族構成やら好みのインテリアなど、本棚を見たらその人がどんな人で何を大事にしてるかがある程度わかるように、プライベートな空間というのは主人のパーソナリティが強く表出されている。
料理よりそれがわかるだけでもおもしろい。
先日訪れたお家はふた家族が集まっていて、小さなお子様がいて賑やかで終始和やかな雰囲気が目の前に広がっていた。
料理を終えれば自分の分が取り分けられてあって、皆さんとの話にも混ぜてもらえた。
お金をいただく立場なのにコーヒーやお菓子まで用意してもらった。
なんの意味もない話も、真面目な話も、そこに流れている時間は有意義以外の何ものでもなかった。
食べながら、語りながら、笑って過ごす時間。
日曜日の昼下がりになんでもない時間がそこにあること。
忙しくて何かを生み出さないといけないプレッシャーさえ感じる現代社会において、その時間は贅沢だった。
振り返って、子供が家の中を駆け回っていたことを思い出すとそれはもう遠い過去のよう。
あの頃の賑やかさは確実にうるさいという主観だったけど、未来から見ると微笑ましい出来事にしか思えない。
すぐそこにある風景はあたたかさに包まれていた。
家族という幸せはやっぱり人類史上最高の幸福なのだろうか。
そんな郷愁を感じながらもその時間を楽しめた。
依頼してくれた全員がこころよく歓迎してくれたことも嬉しかった。
料理は人と人が交わるためのひとつの接点であり手段のすぎない。
同じ思いや同じ時間を共有することが社会的な生きものである人間の本質だと思うので、その間にあるものは極論料理以外の何であってもいい。
それでも料理は映画や音楽に比べれば、誰もが口にするもので間口も広い。
「おいしい」が世界の共通言語であるように、食の価値を再発見できるいい機会になった。
食が秘めている可能性をもっと伝えていきたいと思った。