おせっかいの出番

都市部ほど人と人の距離が遠くなっている。

隣にどんな人が住んでいるのかわからない、挨拶もしない。

核家族化や忙しさが分断を生んでるのは明らかだ。

分断の先にかかるのはコストでしかない。

家事代行、ベビーシッター、何のために働いて何のためにお金を稼いでいるのか。

ワーママやワンオペ育児やイクメンなどの言葉が生まれるのも世相を表している。

周りに頼れない、誰にもお願いできない、だから便利なサービスを利用する、という図式はどれも対処療法的で根本的な解決になっていないような気がする。

昔は地域の人たちで子供を育てていたとよく聞く。

調味料の貸し借りさえ行われていたとよく聞く。

近隣の人たちで相互扶助の関係が成り立っていたのが、現代では確実に希薄になっている。

お互いに助け合うこと、協力し合うこと、人間はそもそも一人では生きれない社会的な動物なのに、どこか無理をしてがんばってるようにも見えてしまう。

また、おせっかいという言葉の意味合いがどこか鬱陶しさのニュアンスを含んでいる。

分断の結果でみんながハッピーになるなら何も文句はないけれど、実際には一人一人に負荷がかかっていて無理ゲーだなんて言われてるのだから限界であることを認識しないといけない。

晩婚化も少子化もこのような現状に大きく関与している。

一人でいろんな問題を抱えないといけないというプレッシャー、周りに合わせないといけない社会圧、みんな難易度の高くなった人生ゲームに参加させられている。

では、いろんなサービスで間に合わせるのではなく根本的な解決とはなんだろう。

思うに、人間本来の習性であるみんなで協力することや、おせっかいの解釈を再定義することのように思う。

そして余裕のある人が余裕のない人を助けるといった社会にとって善い行いとは何かを今一度問い直す時がきているのだと思う。

そんな当たり前のあるべき姿を盲目にさせているのは、やはり市場経済でありお金ではないか。

利益を優先して未来に投資する、数値化できるリターンばかりを期待して生まれる分断や格差にそろそろ頭のいい人たちは気づいている。

その人たちは数値化できない感情や気持ちをベースに社会を変えようと努力している。

とはいえ市場経済の競争もお金で得られる豊かさも悪いものではない。

みんな恩恵を受けているし生きるモチベーションにもなっているから。

そんな淡いの中で、そんな時代の転換期を迎えてる今、自分はどのような形で社会に貢献できるのかを考えさせられる。

見返りを求めずに与えること。

与え与えられて循環していく相互扶助の関係。

他者への関心を含むおせっかいは思いやり。

まずは自分からはじめる、そのためには余裕と知性が必要だと思う。

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