時間という資源

味のある古さというのはどこからきているのだろう。

建物にしても家具にしても西洋発の方が価値が認められている傾向にあるように思う。

日本も神社やお城はあまり古さを感じないのに、昭和を思わせる看板や廃墟感はすたれている感がある。

侘び寂びの趣はどこからどこまでが適応範囲なのか。

それとも個人の感性の度合いによるものなのか。

デザインだと、流行りの装飾よりシンプルさの方がやっぱり長く愛されると言われる。

古いものがいいと思えるのは、飽きないことが大事で、いかに余計なものが混ざってないかという本質的な見極めが必要そう。

茶の文化で生まれたミニマルな考え方は現代にも通用する。

情報で溢れていたとしても、人間に通底している美意識は以外とシンプルなもののような気がする。

研ぎ澄まされたものだけが長く残っていくのだろか。

残るものが本物であり、美しいということなのだろうか。

味のある古さや、シンプルな美しさを考える上で、ひとつの仮説として、時間性が含まれているかどうかは大いに関係していると思う。

みんなに等しく流れている時間、売買することのできない時間、コピペできない時間。

時間という資源が貴重に思えるのは歳を重ねたからかもしれないけれど、物事の味わいや美的感覚の裏側には必ず存在している。

建物や家具なら経年変化の味わい、シンプルな美しさなら時間をかけて無駄なものが削られてクリアになったようなイメージ。

料理ならワインや発酵食品など、時間にしか作れない美味しさがあるように。

人間もまた、幸せで豊かな人生を願うなら、時間の価値を蔑ろにしてはけないと思う。

だけど今すぐにはわからないことだし、後になってわかることでもある。

それでも時間という資源を意識すれば、今できることや、世界の見え方が変わるような気がする。

自分の時間は自分だけのもの。

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